デザイン工芸

李朝白磁「フォトン」灯明器 とポスト李朝工芸の軌跡 _民芸作品では紹介されない暮らしの中に耀いていました。 

阿部蔵之|木とジョイントの専門家

先端パーツを交換出来る白磁の灯明具フォトン、李朝時代の民具ですが、電気が入ると用無しになり、捨てられて消えてしまった灯り道具です。「民芸」は、自然素材を活かし、電気のない日常生活基盤から生まれてきました。

先端の炎芯柱は、一本と二連のタイプがあり、割れたら交換してつかえます。白磁色も時を越えて良い艶になり、把手は握りやすく初めて手にとってみるとコーヒーカップに 近い手触感です。

   1970年の夏、ソウル市内の仁寺洞骨董・美術品街では陶器・民画、文房具が韓国内各地から沢山集められて販売され賑わっていました。ある日の昼休みに骨法店頭の林檎箱に小さなカップ状のものが乱雑におかれていたので店主に聞くと李朝時代の灯明具「フォトン」でした。この小さな白磁は、植物油を入れ灯心を出して明かりをともす生活用品です。それ以後は、仁寺洞では見かけなくなりました。
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甲(一本炎芯):直径70.8mm x 54mm   84H mm   150g
乙(二連炎芯):直径71.3mm x 57mm     86.5Hmm  208g
(残っていた炎芯は韓紙のこより。長時間燃やすには芯を切り細紐をつかう)
 先端の炎芯は、一本と二連のタイプがあり、割れたら交換してつかえる便利な道具でした。白磁色も時を越えて良い艶になり、把手は握りやすく初めて手にとってみるとコーヒーカップに最適な手触感です。
灯心ノズルは直火で経時劣化し割れますので、ヘッドパーツは取り替える消耗品。先端部ノズルの規格化は、工業製品へのプロセスを内包していると言うべき民衆工芸量産品目でしたが、美の対象にはならない雑器扱いだったのです。1ヶ100 – 120 ウオン (1970年当時レート 1ウオン=1.2 円)  ほっこりしたフォルムと肌が美しく、綺麗なものを厳選して購入、以来半世紀、本棚にずっと居座っています。
李朝ものは白磁の壺や茶碗は、美術品として評価が高く注目されてきましたが、当時、このフォトンは転用もできないゴミ扱い、もはや韓国内にもないのでは?
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 1970年の夏、ソウル市内の仁寺洞骨董・美術品街では陶器・民画、文房具が韓国内各地から沢山集められて販売され賑わっていました。ある日の昼休みに骨法店頭の林檎箱に小さなカップ状のものが乱雑におかれていたので店主に聞くと李朝時代の灯明具「フォトン」でした。この小さな白磁は、植物油を入れ灯心を出して明かりをともす生活用品です。
長年、骨董展やアンティーク本、韓国時代劇ドラマでも姿を見受けません。必需品で日曜雑貨・荒物類は、相当数制作されていたのですがコレクターもいないようです。
白磁・青磁から緑磁へ、モダンデザインへの軌跡  Seoul,1970               
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 南大門近くにあった旧朝鮮ホテルのアーケードに伝統工芸品のショップがあり、特産の朝鮮人参、陶芸品、手織りシルク布地や螺鈿細工・い草工芸品、紫水晶ジュエリーなどを扱っていました。時々、訪れて女主に各地の工芸応用美術品の見方を教えてもらったり時々購入。その中に、陶芸の新しい創作品があり、青磁を超える緑色を創り出そうとしている女性工芸家(梨花女子大学の先生)が作品を販売していましたのでコーヒーカップを二客購入。社会や産業経済が安定し始めると、従来の型にはまった伝統工芸からモダンデザインへの脱皮が模索されはじめた時期です。
収蔵されていた伝統工芸品がひきだされ骨董店・画廊がバイヤーで賑わう一方、生活様式の変化でユーザ−・販路を失い、後継者がいなくなる岐路に立っていました。

ポスト李朝:白磁・青磁もシンプル、モダンデザインへ

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Yikyung KIM Ceramic Studio、Seoul Korea  1985年8月
7年後に再訪すると,現代的なモダンな作品を手がける女性陶芸作家が活動を拡げ、スタジオを開くまでに発展していました。
 (下宿先の医師 Dr. 櫨潤模の奥様 金恵郷おばあさんの友人陶芸家 Ms.Yi Kyung作品)

ソウルでの仕事 -1

 日本政府の戦後賠償の一環で民生産業支援プロジェクトに家具産業の工業生産計画が実施され、現地企業から千葉大学木材工芸科成田壽一郎助教授に工場プランニング・技術指導の要請があり、私は代わりにプラント工事・製造機械設置・家具デザイン技術担当職としてソウルに赴任しました。
当時は、永唱楽器ピアノ工場にヤマハの技術者が技術指導にきていたのですが、他には専門家に出会うことがなく,在留日本人はまだ少ないころです。夜のダウンタウンでは、22時を過ぎると帰り支度でタクシー相乗りの声が大きく響きます。0時を過ぎると逮捕され「虎の檻」行きでした。朴 正煕大統領軍事政権戒厳令下でもソウル市内は平穏で復興が加速され、産業振興躍進に目を見張りましたが、戦争状態を意識する時間がありました。現在の朴大統領のかわいい娘さんの頃。

鍾路区仁寺洞地区

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 まだ近代化以前、木造平屋造・瓦屋根の伝統民家群でした。この頃から中層のビル・アパートが増えソウル市中心部の街路改造がはじまります。
赴任先オフイスは、鍾路区仁寺洞の真ん中にあり 7F建ビルで高層化のはじまりのビル、韓国随一の骨董街の立地でした。
陶器・家具・絵画などアート・クラフトの復興途上にあり李朝ものが注目されはじめ、翌1971年、初めての「李朝室内装飾展・李朝古木家具立体展示」が新世界百貨店(元ソウル三越)で開催。文化的な再興ムーブメントが起きて国内に残っていた優品が生活スタイルの変化、世代交代などでマーケットに出回り始めたため、伝統韓国家具の調査・研究にはまたとない絶好の機会でした。
しかし、ドイツ・アメリカ・日本からの買い集めで骨董家具類の評価が高まり、国外へ流失することになります。
韓国国内では、まだ李朝家具の研究者がいない時期でしたので、国立博物館美術課長の崔淳雨先生(後にソウル国立博物館長)の指導・支援をいただき、李朝家具・建具、室内装備実測調査や壁紙などの復元、韓式室内の建築施工などに携わりました。断片的ですが撮影画像・実測図面などとともに記録を掲載、後述します。AQ 19700520  – 19780825
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木の総合学研究2014 – 2019 「韓国磁器窯と朝鮮赤松の薪」「伝統工芸復興期から現代デザインへのシフト」

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